2011年 07月 21日

Morning moon

人混みのなかで父を見失ってしまわないようにと、上りのエスカレータで私は父の後ろに立った。
エスカレータが上の階を目指し緩やかな角度を作ると、後ろ姿の父の足元が目に入る。ズボンの裾が、左右の靴にそれぞれ少しずつ乱れて入り込んでいるものだから、きちんとプレスされているはずのズボンに皺が寄っていた。それは父が「靴を履く」という日常の当たり前すぎる行動のひとつですらしんどくなりつつあるのだろう、ということを感じさせるものだった。私が手を伸ばせば、ズボンの裾はいとも簡単に靴からするりと外れて、スッキリとプレスされたラインに戻るのだろう。でも、私はそれをできないでいた。靴を履くこともままならなくなってきた父を、認めるのがイヤだったのか。あれほどにかつて、隙のないスーツ姿で仕事へ向かっていた父に対して、それはプライドを傷つけてしまわないだろうかと一瞬そんな思いがよぎったのも事実だった。
靴からズボンの裾を引っ張り出せば、昔の父に戻れるだろうか。その願いをかなえてもらえるのならば、私は躊躇せずそうしただろうか。


待ち合わせ場所に、その人は既に到着していた。
事情をあらかじめ説明してあるから、その人は「今の父」の概ねを知っていてくれる。それでも満面の笑みで父の姿を包み込んでくれた。笑顔と向き合って、母と私は安堵する。「どうか、宜しくお願いしますね」と、母娘二人してその人に頭を下げて。

その人に促されながら、ヨロヨロと歩む父。昔々は父の部下だったというその人と、父、彼らは同じくらいの背丈だったのだろうなぁ。昭和ひとけた生まれとしては長身であるのだろう、かつては170センチ以上の身長だった父も、今では背中がすっかり丸くなり、目線が私と同じほどの位置になってしまった。



「少し何か食べようか?」
「時間、大丈夫?」
そんな会話をしながら母と私は並んで歩く。
ふと目に入ったベーカリーの横に、もうしわけ程度に設けられたテーブルと椅子に先客の姿がないことを確かめて。「パンでも、食べようか」「そうだね」母が選んだのは、あんドーナツ。私は黒豆の入ったパンを買い、壁際の椅子にやれやれと腰を下ろした。

「進んだっしょ、お父さんの症状。」淋しげに笑いながら、母が言う。
「そうだね、仕方ないよ。そういう病気なんだから、さ。でもまだまだ入り口だよ今は。」
「そうだよねぇ。」

焼き立てパンを手に、どちらからともなくため息をつく。
視界には絶え間なく、行きかう人々の姿。
...いや、見えているけど、見てはいなかった。
黒豆にほんのりと甘味がついている。塩味の方が良かったな。
飲みこむときに、今日も喉に違和感がある。
父は今何を食べているのか。あとで母がそれを父に尋ねたところで、もはや父は覚えているはずもないだろう。

もっちりとした米粉のパンをちぎりながら、今しがたの父の様子を思い返していた。
5分と待たず、同じことをひたすらに何度も何度も尋ねてくる父。
「ここって、何処だったっけ?」
「何しにここに来たのだった?」
不安だらけの気持ちが、父の表情を曇らせて。老人の父が、まるで幼子であるかような錯覚を起こす。
そう、不安だよね。記憶が出来ないその恐怖。不安であるに、違いない。
私も不安だよ。この先、どうなっちゃうんだろう。毎日毎日、不安だよ。
でも、そんなこと父には言えない。母にも、言えない。
笑ってるしかない。


「なんとかなるよ、大丈夫だよ。」と、母に自分に言い聞かせながら
笑ってるしか、ない。

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(※平成23年7月21日早朝撮影)

by Okamekikurin | 2011-07-21 10:44 | ツブヤキ | Comments(6)
Commented by michiko at 2011-07-21 17:07 x
大なり小なり老いた親を持つ世代は同じような思いを
してきたんだと思う。
あんなに頼もしかった父が、ほがらかだった母が
違う人になってしまう不安は幼子のように泣きたくなるのです。
私も近い将来、娘に同じような思いをさせてしまうのだろうか・・
Kikurinの文章を目で追いながら、いつのまにか
ぼやけてしまうのです。
なんとかなるよ~そう思わないと! 
Kikurinの喉の違和感、気になるから病院へ行ってみませう。
Commented by kitanohide at 2011-07-21 19:16 x
こんばんは貴方も沢山の心配ごとを抱えているのですね
誰もが一度は通る道頑張るしかないのですね.現実から
目をそらさず頑張ろう。
Commented by Okamekikurin at 2011-07-21 22:01

★michikoさん★
♪トシをとるのは素敵なことです~♪そうじゃないですか~~♪...っていう歌詞が、中島みゆきの歌にありました。
「素敵」であってほしいと、願い続けてます。
父はこういう病気になってしまったけれど、父は父で。私の父で。

...などなど思うわけですが、思いながらもなかなか現実はそれだけではないんですよね。
直のかかわりの中では、自己嫌悪と苛立ちと、ごった煮です(苦笑)
しかしこれは我が家だけじゃない、と。毎日毎日言い聞かせます。
特別なことでは、ないんですよね。。。ぜんぜん。

喉の異物感、さすがに続くようであれば検査に行かねばなと考えてます。ご心配いただき、恐縮です(汗汗)
母がもう20年もの間、舌根の炎症に悩まされてまして(治療できない場所なんですよ)何やら同じような感じがします。親子だなぁ...
Commented by Okamekikurin at 2011-07-21 22:03

★kitanohideさん★
有難うございます、kitanohideさん。
父も70歳まではそれこそ独りででも山に登っていたのですがねぇ...一度、下山時に転倒骨折しまして、それから山には行かなくなりました。思えばその後、ガクガクっと一気に年老いた感じがします。

どんなことになろうとも、自分の父であることには変わりなくて。受け止めて、受け入れていこうと思ってます。なかなか簡単なことではないでしょうけれども、ね。

不安は多々あれど、kitanohideさんや心温かな友人達のおかげで私も笑顔の日々を送ることが出来て感謝感謝です。

Commented by こたつ猫 at 2011-07-23 10:49 x
年をとって老いるのは万人共通ですが、痴呆症になると、周りの人が大変ですね。
KIKUさんも無理なさらないように。

私は「ピンピンコロ」でいきたいな。
Commented by Okamekikurin at 2011-07-23 15:17

★こたつ猫さん★
こたつ猫さん、お心遣いを有難うございます。
誰だって好きで病気になるわけじゃないのですよね...父だってまさか自分が認知症になるとは思ってなかったでしょうし...

本人も勿論苦しんでいるのは傍から見ていてよくわかります。
でも、家族は本人とはまた、違った苦しさがあるものですね...

なるたけ気持ちをラクに過ごしたいものですが、現実は、いらだち、ふあん、じこけんお、なかなかうまくゆきませんのデス。とほほ...

私もピンコロがいいなー。


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