2011年 11月 03日
まだ、当時のアパートはあるだろうか、と、そんな言葉が思わず口からこぼれてしまった。 「行ってみるかい?」と、夫が言う。 懐かしい地下鉄沿線の通りを...しかしあの頃とは建ち並ぶビルやマンションも随分と変わり、少しだけ迷いながらたどり着いた。 果たして、アパートはまだそこにあった。当時のままで。 越してきたのは21歳の時だ。 昭和59年、秋。 その年の夏、肺結核と結核性胸膜炎で入院していた。 「妙だな」と、わき腹から背中にかけての症状は早春の頃から感じていたのだが、まさか自分の体内にそんな病が巣食っているなどとは夢にも思わなかったから。仕事三昧と不規則な暮らしと、若さという根拠のない過信にまかせて私はずいぶんと無茶な日々を送っていた。 妻子ある男性と、3年。 入院と共に、あっけなくそれは終わりを告げた。 退院の翌日からは、とにかく新しい住処を見つけてH大前のマンションは出なければならなかった。 興信所の車は、何度か見かけた。 退院後も半年は仕事をしてはいけないとドクターストップがかかっていたものだから。 ただただ、鬱々と、狭い部屋の中で日々を過ごしていた。 結核の薬の副作用で三半規管だの色覚だの、肝臓だのにあらわれる、ありとあらゆる不快症状と闘っていた。微熱が一向に引かず、ひと月風呂に入らなかった。着替えもしなかった。このまま廃人になるのかと、ぼんやりと思うようになっていった。 あの頃と変わらない、アパートの外観をしばし見ていた。 胸がえぐられるような、痛みに似たキリキリとした感覚を覚える。 21歳の自分を探す、48歳の自分。 とにかく、月日は流れていったのだ。それだけは、確かなのだ。 夫の診察予約時間にはやや早すぎる到着だった。 病院からほど近い珈琲屋で時間をつぶそうと、お店の駐車場に空きスペースを探す。 ここもまた、ずいぶんと懐かしい。 「何年ぶりくらいだろうね」夫が言う。 S珈琲を退職してから、一度は来たかなぁ。 それにしても、20年ぶりくらいじゃない?...答えて自ら、その響きにうろたえる。 マニュアルが行き届いた接客。私もあの頃は、このスタッフの人たちくらいに若かったのだ。 ラミネート加工のメニューを眺める。あの頃もあったメニューが、今もいくつか並ぶ。 目頭が熱くなる。メニューを眺めて泣く客なんて、多分ほかにはいないだろうな。 この店で、夫の婚約者と逢った。 この店に、かつての夫と訪れた。 青春と嫉妬と友情と、 遠い記憶は珈琲カップから立ち上る湯気のようにゆらゆらともつれ、はかなく消えて行った。
by Okamekikurin
| 2011-11-03 01:14
| ツブヤキ
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Comments(11)
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michiko
at 2011-11-03 10:15
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胸がきゅんとなりました❤
本人にとっては辛いせつない思い出でしょう。 でも、キラリと光る短編小説のようで 読み終えて、ほっと溜息が出ました。 Kikurin、書いてみたら? 文才あるよぉ もっともっと読んでみたいです。
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kei
at 2011-11-03 10:23
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母が結核で片肺を取っていました。
私が子供のころです。 その母は、自分が長生きできないと思い 好き勝手な生き方をして・・・特に私は愛情を受けませんでした。 長生きできないと言っていた母は73才まで生きて ばくち、マージャン、パチンコ三昧。 今でも腹が立ちます。^^; kikurin、大変だったんですね。。。 夫の婚約者? どういう話で会ったのかな 興味深深な私。(^_^)
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ぴこぴ
at 2011-11-03 12:54
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皆 その時その時で精一杯生きていたのだと思います。
振り返ることが出来た時、その生き方を肯定したり悔んだり出来る。 その繰り返しですよね。 でも、こうして当時の場所に足が向くって 自分である程度心の整理ができてるからこそですものね^^ しかし、肺結核とは・・・ さぞ辛かったことでしょう。。 大病は経験した人でないと辛さは分らないとは言え もがき苦しんだ様子は 読んでいて言葉もありませんでした。 わたしもこの年になって 健康ってほんとに大事なことだと改めて思いました。 kikurinさんもここの皆様も 身体大事にしましょうね^^
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杏湖つばき
at 2011-11-04 11:23
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切ないね・・・
胸がキュンときたのよ・・ そして、こういう事があってね、今のkikurinさんが いると思うと、なんだか愛しくって。。 肺結核。。苦しかったでしょうに・・ 旦那様と共にお大事にね。。
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Okamekikurin at 2011-11-04 21:02
★michikoさん★ 週末はお天気が崩れるみたいだけれど、今日までは穏やかでしたねぇ。 明日はもしや、Tちゃんさんに会われるのかな?(どっからその話を...笑)楽しみですね! 一日に、ほぼ決まった数十名の方達が立ち寄ってくださるこの小さなブログの中にたまに「あ~やっちゃったよ」的に書かせてもらえることが、自分にとっての幸せなのかなぁなんて考えてます。 「書かなきゃならない」仕事がらみの原稿とかは、〆切当日になっても書き始めていない、とか、とにかく腰が重い奴なのです...やらなきゃならない、というのがとことん苦手で。困ったものですワ。 また、いつかそのうちに「やっちゃった」記事をアップしちゃいます、きっと。 後悔の波が必ず押し寄せること間違いなしなのですが、このアフォな私をどうか見捨てないでくださいまし~。
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Okamekikurin at 2011-11-04 21:02
★keiさん★ 結核、かつては死に直結する病でしたものねぇ。 今は薬があるから100%治癒する病気になりましたが...それでも一番熱が出ている時期は毎日40度ですから、「死ぬ~~~」って感じで唸っておりましたヨ。 病気そのものは治りましたが、後遺症は今も引きずっております。これだけは一生ついて回るのかなぁ。 今の夫と出会った時は、彼は、絶対結婚するのだろうなぁと誰しもが思っていた交際相手がいました。で、私も前の夫と結婚していましたし。 人生って時に小説より奇なり...だよなぁと身を以て実感します。 いつか、そんな話をホソボソと綴れたらなぁと...すごく漠然とですけれどね、思ってます。摂食障害の体験談とかはね、壮絶ですよ...我ながらそう思います(笑)
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Okamekikurin at 2011-11-04 21:03
★ぴこぴさん★ ぴこぴさんにも私にも、どんな人たちにも過去があってツライことがあって楽しいことがあって。そうして生きてきて、これからも生きていくんですよねぇ。 今、輝く若さは失ったけれど、でも「今」は、これはこれで悪くないぢゃん、とかね、思ったりします。辛いこと、いっぱいあるけれど。夫も私も病気持ちだけれど。でもブログ仲間がいて、たまに写真を撮りに行けて。小さなシヤワセがそこここにあるのだもの。それが何より、と思うのです。 結核で入院した時、向かいの病室にはトルコ風呂(当時はまだソープじゃなかったの)の客引きの男性が居てね。その人は結核と十二指腸潰瘍のどっちも重度でした。絶対助からないんじゃないかと思いました...見ていて。でもね、半年後にはまるまる太って。医学の発達ってすごいなぁと感じましたねー。ちなみに、その人のお見舞いに来ていたのはトルコ嬢とヤのつくお人ばかりでした(笑)
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Okamekikurin at 2011-11-04 21:04
★杏湖つばきさん★ なりたくてなる病気なんてないですよねぇ...どこが病んでも、辛いものですよね。 肺は、まだ二つあるからいいのかな、なんて思ったこともあったデス。 杏湖さんの「眼」というのは考えただけで苦しくなります... 色々あって、「今」があるのだなぁと。私も最近はそう思うようになりました。 ズタボロの日々がしばらく続いていたけれど、だけど「なんとかなる」ものなんだなぁと。だから今も色々あっても「きっと、なんとかなる」と自分に言い聞かせることができるようになりました。 ...ま、そう思いつつなお、もがくことは多々あるけれど、ネ。 週末から寒くなるようですねぇ。 杏湖さんもどうかくれぐれも温かくしてお過ごしくださいませ~。
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ポンママ
at 2011-11-07 09:10
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わかいときは皆いろいろとあったんですね
思いだしたくないって思いながらも思いだすと 心がキュンとなって涙がでてしまうことがあります いっぱい泣いた若いころの恋 私にもあったんですよ~~~^^; あの頃は真剣だった 今の夫とのときもいっぱい泣いた・・・ あの頃にもどりたいとは思わない 今がすごい幸せってこともないけれど今でいいかなって 思ったり・・・・ 病気だったんですね 乗り越えて今がある 私も仕事してて摂食障害 あの頃はそんなすごいことって 思わなかったのに 周りから普通じゃないって・・と言われて言われて 病院にいったわ 問題解決してもなかなか治らなかったけど 今はふとってきちゃって参ったわ~~~ あの頃の洋服少しづつ処分^^; もう痩せられないわ~~~
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Okamekikurin at 2011-11-07 17:37
★ポンママさん★ いやぁ、ポンママさんのコメントに「人生」を感じます! そうなんですよねぇ...恋焦がれて胸もキュルキュルとなって...「今」はそんな想いは失ってしまったけれど、私も同感だなぁ...何故かもう戻りたいとは思わない。若さって輝いているんだけれどね、今、それは自分の何処を見回してもないのにね。でも、今は今でいいやって。 摂食障害....そうでしたか...あの辛さを、ポンママさんもご存知だったのですね。 自分も大きく3回繰り返してしまいました。拒食症と過食症って約束したようにセットでやってきますよねぇ。 拒食の時期より過食の時期の方がツライものです... しっかりどっしりと中年太りの今もね、確かに痩せたい思いはあるのですが、こういう年代になってしまうと、骨の心配とか(笑)若いころには思ってもいなかったことがあって。痩せることよりも元気で居られることの方が大切ですワ。元気でないと、大好きな写真も撮りに行けないし(^o^)
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at 2011-11-09 10:05
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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